人生の分岐点は、自転車と奈良だった。

藤原 一秀さん
「日本酒 福」店主

大阪天満宮近くに日本酒専門の居酒屋を構える、藤原一秀さん。『山中酒の店』の料理部門で7年経験を積んだ実力派だ。藤原さんが飲食の世界へ足を踏み入れたのは25歳のとき。それまでは、ピストバイク(自転車)で荷物を送り届けるメッセンジャーだった。「今こうやって、飲食業界で生きていけているのは、人生のターニングポイントで、3つの運命的な出会いがあったから。①自転車 ②大神神社(奈良・三輪) ③三諸杉(奈良・三輪/今西酒造) です」と静かに、そして熱く語り始めてくれた。

メッセンジャー時代は、大阪府内を自転車で走りながら店探しに余念がなかった。そう、藤原さんは食べることも飲むことも大好き。SNSがない時代だったから「おや?この路地裏に良さげな店あるな!とか、ここ新しい店やな、など自転車を走らせながら常に、良さげなお店をチェック」。趣味はもっぱら、自転車に乗ることと、休日の食べ飲み歩きだった。

ふらっと一人で入った居酒屋では、「店の大将が言うんです。“若い子が一人で来るなんてよほどの酒好きやな”と。“僕、福井県出身で”と故郷の話題を出すと……」、目の前に供された酒は、地元が誇る「黒龍 純米大吟醸(福井/黒龍酒造)」だった。口に含んだその瞬間、藤原さんは日本酒の魅力に開眼したという。「それまで僕にとって酒とは、酔って楽しいツールでした。だけど日本酒は、純粋に味わい深いお酒だなと感動して」、日本酒に傾倒していく。
その翌週、休日に奈良へ行こうと決めた。なぜなら「奈良には、日本酒の神が存在するから」。大阪から自転車を走らせ、三輪山のふもとにある『大神神社』へ。日本最古の神社であり、古来より酒の神様として信仰を集める地だ。
「これからも健康で、いい酒が飲めますように」とお参りした藤原さんにとって、ここが運命の地になるとは、あの頃は思いもよらなかっただろう。
大阪へと戻る途中、奈良市内にある酒屋に立ち寄り「奈良に来ないと飲めない酒を、買って帰りたい」と店主に尋ねた。出てきたのが三輪『今西酒造』が醸す「三諸杉 菩提酛」。帰宅後、自転車旅の疲れを癒すべく晩酌を始めてみると……。
「三諸杉のふくらみのある旨みに、いい意味で面食らいました。しかも、乳酸っぽい独特の酸味、旨みや渋みもある。ただただ驚きのおいしさで」。
藤原さんが絶賛する「三諸杉 菩提酛」には、室町時代に奈良で編み出されたとされる、伝統的な酒母(酛)が使われている。菩提山正暦寺で仕込むこの酒母は、奈良の酒蔵が共有し、それぞれ独自の酒を醸しているのだ。
それまで藤原さんは、日本酒=キレイな味わいの大吟醸ばかりを追い求めてきた。しかし「この『三諸杉 菩提酛』の個性的かつ複雑味に参りました」。酒蔵を調べると、さっき立ち寄っていた大神神社のすぐ近く。「勝手に、呼ばれているような気がして(笑)」、次の休日、ふたたび自転車を走らせて三輪へ。飛び込みで『今西酒造』の門をくぐると、先代の蔵元が出迎えてくれた。「どこの馬の骨かわからん僕に、“どうぞどうぞ”と声をかけてくださって」、蔵の中を時間をかけて案内してくれたという。
「あのもてなしは、一生忘れられません。僕の中で、何かが変わった瞬間でした」。

日々、メッセンジャーとして自転車で仕事をするなか、食べ飲み歩きが高じて、日本酒の神に会うために自転車で『大神神社』へ。この地で運命の酒に出合った藤原さんは、「日本酒と関わる仕事がしたい。酒も料理も学べる日本酒居酒屋が僕には向いているかも」と、飲食業界へ転職。京橋『二刀流』をはじめ、『山中酒の店』系列の店々でも腕を磨いてきた。「山中酒の店では、イベント企画も担当しました」。藤原さんの聖地である『大神神社』と、『今西酒造』の蔵見学をセットにしたツアーを自らが企画。余談になるが、藤原さんと奥様・里香さんとの出会いは、このイベントだというのだから。「大神神社と巡り会い、職も嫁も見つかりました(笑)」と藤原さんは笑う。今もなお、事あるごとに酒の神様への参拝は欠かさない。

日本酒に人生を捧げた男は、2017年2月に独立を果たした。物腰柔らかなトークと実直な姿勢が、藤原さんの強みであり、日本酒ファンの心を掴み続けてきた。「お酒がすすんで仕方がないほどおいしい酒肴、酒肴が止まらなくなるくらいおいしいお酒、このふたつを大切にしています」と藤原さん。気の利いたアテは、かまぼこなら魚のすり身を練るところから。また、故郷・小浜(福井県)に根付く漬物・名田庄漬けをはじめ、酒粕と梅酒のアイスに至るまで、「作れるものは全て自分の手で」。酒は常時30種を揃え、なかでも「三諸杉」と新ブランド「みむろ杉」は、常時計5種前後を揃える、ラインナップの中核にある大切な酒だ。
「僕にとって運命の酒である日本酒。その魅力を押し付けがましくなく伝えたいです」。食中酒としての日本酒の醍醐味を「気軽に楽しく」提唱し続ける。

[2021年4月10日取材]撮影・文/船井香緒里

藤原さんにとって運命の酒『三諸杉 菩提酛 純米原酒』は90ml600円で提供。上品な甘みと深みのある味わいが魅力。
自家製かまぼこ650円。タラをベースに、スズキやサワラなど使う魚は日によりけり。だから「毎日、味が違う」。
藤原さんは福井県小浜市出身。地元の伝統工芸、若狭塗の箸やお盆、さらには地元のブランド米「いちほまれ」やトマト「越のルビー」など福井のローカルな味に出合えるのも魅力。
大阪天満宮から歩いてすぐ。カウンター席をメインに、テーブル6席も。藤原さんが一人で切り盛り。
「日本酒 福」
住所 大阪市北区天満4-16-5 あんじんビル1F
TEL. 06-6809-3145
営業時間 通常は17:00〜23:00(日曜、祝日15:00〜22:00)
定休日 月曜

[ 掲載日:2021年4月20日 ]