経験しながら思考は変化する

木下 憲幸さん
「北野坂 木下」オーナーシェフ

2020年5月14日、木下憲幸さんは『北野坂 木下』を開いた。神戸・北野で人気を博したイタリアン『Ristorante Due(リストランテ ドゥエ)』シェフを経ての独立が、奇しくも、新型コロナウイルスによる緊急事態宣言のタイミング。「オープンしてすぐ、テイクアウトにも対応できるよう、“そうざい製造業”や“菓子製造業”などの免許を取得しました」とシェフは当時を振り返る。週3日営業かつ、客数を制限してのスタート。結局、テイクアウトに踏み切ることはないまま、今では1ヶ月先まで、満席の日々が続く。

減圧加熱調理器「ガストロバック」を駆使した新進気鋭のイタリアンとして名を馳せた『ドゥエ』時代とは異なり、自店のキッチンには炭台が鎮座。最先端からあえてプリミティブな調理法へと、彼を導いたきっかけは何だったのか? 「経験しながら、走りながら自分自身をアップデートさせてきた結果です」。

イタリア修業時代、4軒の星付きレストランで研鑽を積んだ。中でも、ヴェネト州・ヴィチェンツァにある2ツ星『LA Peca (ラ ペーカ)』での経験が、考え方のベースにある。「イタリア北東部といえば、乳製品をたっぷり使う料理が多い。だけど、『LA Peca』は、クリームやバターを使わないことをコンセプトに、地方料理を分解・再構築していました」。例えば郷土料理、バッカラ・マンテカート。一般的には、塩漬け干し鱈を、塩抜きしてから牛乳で煮るなどし、生クリームでつなぐ。しかし店では、戻した鱈を鶏ブイヨンで煮き、オリーブオイルを加えクリーミーになるまで撹拌していた。「乳製品に頼らずとも、物足りなさを感じさせない。僕が理想とする味づくりが、そこにはありました」。
今の木下シェフの料理に置き換えると…。「素材感や味わいの輪郭がありつつ、食後感は軽やかであること。味の要である、ブイヨンなどダシを丁寧に取るところにも繋がっていますね」。

帰国後、日本人シェフのあの一皿に、木下シェフは魅了される。大阪・北浜にある名リストランテ『ポンテベッキオ』。オーナーシェフ・山根大助さんのスペシャリテ「温かいポテトのティンバッロとキャビア」だ。
熱々のポテトに、冷たいフレッシュキャビア、両者を繋ぐオリジナルのマスカルポーネがシンプルに層を成す。「衝撃的な料理でした。キャビアの旨みでいかにジャガイモを美味しく食べさせるか?という主眼がはっきり。しかも、素材の力よりもさらに、力強く感じる「組合せ」であり、経験したことがない「新味」。なおかつ、「削ぎ落とす」潔さが、山根シェフの一皿にはありました」。木下シェフが最も理想とする、「シンプルな中の凄み」がそこにはあった。

シェフとしてキャリアをスタートさせた『Ristorante Due(リストランテ デュエ)』では、「印象に残る皿」「シンプルな中の凄み」を表現すべく、ガストロバックを使い、例えば和牛の中にトリュフオイルの香りを入れた炭火焼など、素材らしさを生かしながら今まで出せなかった味覚や食感、香りに挑戦してきたという。

『北野坂 木下』開業前には、それまで以上に生産者の元や地方へ足を運ぶようになった。そんな中、今年2月、自身にとって運命的な出会いがあった。金沢の鮨の名店『めくみ』で味わった、“6時間蒸しただけのアワビ”である。「洗って蒸すのみ。だけど、温度と蒸し時間の緻密な調整により、アワビ本来のポテンシャルが最大限に引き出されていたのです」。以前の木下シェフなら、例えばアワビの一皿であれば、ガストロバックを用いアワビの煮汁や昆布ダシ、魚介のブイヨンなどの旨みをアワビに浸透させていた。「『めくみ』さんの蒸しアワビに出会い、削ぎ落とす中の究極、というものを突き詰めたくなりました」。

だから『北野坂 木下』には、ガストロバックどころかオーブンすらない。夜コースのメインで提供する、経産牛のシャトーブリアンであれば、薪と備長炭の熾火で焼き上げる。皿の上にソースは見当たらない。「兵庫・浜坂の野生クレソン、アンコールペッパーだけを添えて」、本能に訴えかける美味しさを創り出す。

イタリアで学んだ伝統料理を突き詰め、現代料理のテクニックや、調理と科学についても造詣を深めてきた。そして今。「僕のベースにはイタリアのマインドがありますが、日本人としてのアイデンティティを大切にしたい。日本国内で出会った生産者。彼らが育む食材が持つ力を、最大限に引き出すことが、僕のテーマです」。

[2020年8月10日取材]撮影・文/船井香緒里

オープンキッチンに揃う調理機器は炭台、サラマンダー、ガスコンロのみ。「ガストロバックを使っていた僕が、真逆を行ってますよね」とシェフは笑うが、素材に語りかけるよう料理する姿が印象的。
木下シェフは、和食料理人との交流も多い。「引き算の美学など、日本料理から学ぶことが多くって」。イタリアのリストランテで学んだ、食材の組合せから生まれる未知の味や香りも大切にしつつ、余計な物は排除した一皿を創造する。
ディナーコース(1万5000円)の中のメイン料理「経産牛のシャトーブリアン」。紀州備長炭と薪で2時間火入れ。芳しく、噛むほどに清新な旨みが迸る。浜坂の天然クレソンのフレッシュな苦み、香りと好相性。
「北野坂 木下」
住所 神戸市中央区中山手通1-24-14 ペンシルビル2F
TEL. 078-221-2261
営業時間 [火~土]予約制 12:00~14:30(12:00一斉スタート)
[月~土]予約制 18:00~20:45LO
定休日 日曜日・月2回不定休
コース 昼8000円(8皿)、夜1万5000円(10皿)※共に税サ10%別

[ 掲載日:2020年8月21日 ]