事業継承

平野 仁さん 『鮨処 平野』主人

1949年北海道生まれ。1970年、19歳で東京・茅場町「寿司田」に入社。東京・銀座や香川の支店を経て24歳の時に大阪支店へ配属。寿司田グループの上位ブランド「乾山」の店長などを務め、1985年4月大阪・北新地にて『鮨処 平野』開業。2007年に現在の場所へ移転する。

関西食文化研究会・コアメンバー 山口浩の視点
大阪だけでなく、関西の江戸前鮨界をリードしてきた平野さん。多くの人を育て、独立を果たしたお弟子さんたちは「のれん」の矜持を持ちつつ、独自の世界観でそれぞれの個性を持つ鮨に取り組んでおられます。暖簾分けではなく、独立させることにこだわったと見て取れ、その考え方や技術の指導・継承の考えを伺えたら業界のためになると考えます。

40年の歴史が証明する強靭な繋がり

大阪・北新地にて店を構え、2026年4月で創業41年目を迎える『鮨処 平野』。
開業当初、関西において鮨に特化した店は「福喜鮨さんをはじめ、5〜6軒ほどしかなかったのでは」と振り返るのは主人の平野仁さん。
「江戸前鮨は川魚を使わないのが伝統ですが、40年前の関西の寿司店では鰻も扱い、冬には鍋を出す店が多かったですね」と話す。

平野さんは北海道・函館生まれ。公務員だった父はボーナスが出ると家族を度々、寿司に連れて行ったという。そうした楽しくて美味しかった体験から寿司に惹かれ、寿司職人の道を志した。その後上京し、入社したのは東京・茅場町の「寿司田」。1955年に創業し、クラシックな江戸前鮨を提供しつつ、国内外に多店舗展開して数々の職人を輩出した寿司チェーンの先駆けだ。

平野さんもまた、厳しい修行に打ち込む中で支店へ出向。香川県高松市の支店では瀬戸内の魚介を学び、結婚を機に大阪に定住した後は寿司田グループの高級寿司「乾山」の店長などを務め、37歳で独立をはたした。

こうした経験から当時珍しかった江戸前鮨に特化しつつ関西が白身魚を好む特性を理解して複数の白身魚を用意。食材の仕入れにおいては、東京(当初は築地、現在は豊洲)のルートからマグロや貝類といった江戸前の得意とするネタを取り寄せ、関西近郊の優れた天然の魚介も積極的に活用。江戸前の伝統を堅持しながら、柔軟に適応し東と西、双方の強みを融合させてきた。

「開業から40年という歳月を振り返ると、バブル崩壊やリーマンショック、2度の大震災、O-157集団食中毒事件から生物への不信感が拡大した時期などさまざまなことを経験してきました」と話す平野さん。

なかでも近年、打撃を受けたのは2020年2月に新型コロナウィルス感染症に罹り、約1ヶ月半ICUにて闘病した経験。初期ゆえに情報がなく不安ななかで握力が低下する後遺症が手に出たことから闘病とリハビリを併せ、5ヶ月間店を閉めた。それでも家賃と給料を払い続けた平野さんだが、「スタッフが暇を持て余すのはよくない」と、スタッフを預かったのが近隣で店を出す弟子たち。

平野さんの人材育成が、単なる技術の伝承にとどまらず、いかに強固な信頼関係と相互扶助のコミュニティを築き上げてきたかを物語る。

制約なき独立がもたらすもの

これまで預かってきたスタッフは100名以上だと話す平野さん。
中でも途中で辞めず、2番手を務めてから独立を果たしたのは8名。2026年5月頃には、9人目の卒業生が決まっている。

平野さんの人材育成において、最も革新的な要素は伝統的な「のれん分け」の概念を根底から覆す「完全独立」だ。弟子が独立する際には一切の制約を課さず 「仕入れ先も自由。自分で選んでいい」「うちの近くでの開店も、歓迎」「制約はないです」と話す。

弟子主導の経営を重視する人材育成は若手のオーナーシップと自律性を最大限に引き出す。その結果「鮨処 平野」の単なるコピーではなく、それぞれの店主の個性と創意工夫が反映された独自の存在として輝きを放つ土壌が育まれる。

さらに独立させて終わりではなく、新たな関係性を築くのも特徴的。
独立の際には「できたら近くにいた方が、フォローできる」と言葉をかけるというが、これは独立時の最大の障壁である集客リスクを「鮨処 平野」が築いたブランドと信用によって軽減するスタートアップ支援だ。

この思想は弟子から弟子へと受け継がれ、彼らの間には競争ではなく「共存共栄」の関係が醸成。個々の店の成功がネットワーク全体のブランド価値向上に直結し、強靭な「エコシステム」が生まれる。そのシステムは、平野さん自身が先のコロナ禍で倒れた際に見事機能したことにみて取れる。

こうした考えになったのは、自身が「厳しい修行を経験したから」だと話す平野さん。
若い頃は「殴る、蹴るのが当たり前」という世界だったというが、自身が指導者の立場になった時は自らの痛みを糧に、そして上司の態度を反面教師とした。そのため「弟子に手上げたことはないです」と話す。

こうして管理と束縛によって組織の拡大を図る旧来のフランチャイズモデルとは対極にある信頼と自律性を基盤とし、個々の成長が全体の力となる、次世代の事業承継のカタチを創った。

基礎の伝承と自由な応用

平野さんのこうした人材育成は、なぜ全ての弟子が一定の品質を保ちながら、同時に自分自身の個性を開花させることができたのだろうか。
その理由は「基礎」の徹底的な伝承と「応用」における完全な自由というバランスだ。

例えば、シャリの炊き方。穴子やかんぴょう、椎茸の炊き方や玉子焼きといった伝統的な仕事。そして平野さんが「握りより難しい」と語る細巻きの技術。さらにカウンター仕事だけでは学べない、座敷や出前向けの盛り込みの技術と美学など、鮨職人として、さらには一人の店主として立つために不可欠な土台となる技術を弟子たちに徹底して教え込んできた。

これら強固な土台を習得させた後は「土台の上物は自分で作りなさい」と話すという。これは、基礎さえ身につければ“その上にどのような家を建てるかは個人の自由である”という哲学の表れだ。

「コピーができたってしょうがない。そこに自分のオリジナリティを出さなきゃ」という言葉通り、平野さんは弟子の感性や個性を最大限に尊重。事実「平野」から独立した職人たちの鮨は、玉子焼きや穴子といった「土台」の部分に共通の味わいを残しつつも、店の雰囲気や他のネタの構成、提供スタイルは千差万別。「平野」の育成術は、模倣者の量産ではなく独創的な表現者を創造している。

平野流の事業継承とは

リーダーシップを管理から信頼へと転換し、競争の場ではなく共創のエコシステムを構築し、コピーを求めずオリジナルを奨励する。

平野流の事業承継が示す、未来のリーダーシップ像は次世代を型にはめるのではなく、各自のオリジナリティが自然と立ち上がる場を設計することにほかならない。

40年かけて弟子たちに手渡してきた「のれん」とは、店の名前や看板ではない。それはどんな環境でも通用する揺るぎない土台の技術と哲学、そして誰にも依存せず自らの力で道を切り拓く力そのものだと言える。

主人の平野仁さん(中央)と勤めてから10年目の2番手で2026年5月に独立が決まっている五十嵐康裕さん(左)、勤めて7年目の森太地さん(右)と。
卒業生は「鮨処 多田」(北新地)、「鮨 清水」(北新地)、「鮨処 金城」(北新地)、「鮨処 よしか」(西天満)、「すしふく吉」(西天満)、「甲陽園 すし佳」(兵庫・西宮)、「鮨 こんどう」(京都・鞍馬口)、「鯱寿司」(香川県)など人気のある名店揃い。※順不同
40年前の創業当初、東京の鮨屋は鮨だけ出す店が多く、関西では丼や鍋を置いている店が多かったため驚かれたという。現在も貫くおまかせで酒肴4割、鮨6割という構成もパイオニアだ。
「シャリが大切で、鮨はシャリが7割、ネタが3割」と平野さん。滋賀県産の江州米に白酢を合わせた銀シャリを切る。コハダはこの日は千葉より、タイは明石より、マグロは豊洲より。現在、コースはおまかせ27500円。電話にて予約可能。
写真は弟子が卒業する際、日本料理店「柏屋 大阪千里山」で行ってきた卒業式。大切にスクラップしており、その愛情が伝わってくる。現在も「年に1度あるかないか。特に何か言うわけではないですけれど(笑)」と、弟子の店に顔を出し、静かに見守っている。
修行した東京日本橋茅場町の「寿司田」が掲載されている寿司業界誌「すしの雑誌」(旭屋出版刊)創刊号を今でも大切に持っており、時折弟子に見せるという。55年前で平均客単価が1万円の高級寿司店だった。クラシックな技術を学んだという。
『鮨処 平野』
住所 大阪府大阪市北区曽根崎新地1-6-27 ニュー八千代会館4F

[ 掲載日:2025年12月23日 ]